ピカソとストラヴィンスキー、奇跡のコラボレーション~刺激を与えあった二人の天才~

ピカソとストラヴィンスキー、奇跡のコラボレーション~刺激を与えあった二人の天才~

今回は二人の天才芸術家、画家ピカソと作曲家ストラヴィンスキーをテーマに二人のコラボレーション作品について触れてみようと思う。

私がこの二人に興味をもったきっかけはストラヴィンスキー作曲『イタリア組曲』だった。バレエ『プルチネルラ』の音楽の組曲版である。まるでバロック音楽のようにすがすがしく上品な響きで始まりながらも、すぐに予想を裏切り、現代的な和声とリズムが時にメランコリックに響く、『プルチネルラ』の極彩色に魅了されたのだ。その作品にピカソが関連していたと知ったとき、とても腑に落ちたのを覚えている。互いに作品を制作しあうほど仲の良かった二人の天才。ストラヴィンスキーを知ればピカソを、ピカソを知ればストラヴィンスキーのことをもっと知れるのではないだろうか。そんなことを考えながら進めて行こうと思う。

 ナポリで出会った二人の天才

ピカソとストラヴィンスキーはロシア・バレエ団(バレエ・リュス)の天才興行主ディアギレフによって引き合わされた。20世紀のパリでバレエ革命を巻き起こしていたバレエ・リュスは、当時の一番とがったアーティスト(バランシン、ニジンスキー、コクトー、サティ、ドビュッシー、シャネル、マティスなど)を起用し、最先端のバレエをパリ市民に提供していた。すでにそれぞれディアギレフと仕事をしていたものの、ピカソとストラヴィンスキーがともに作品に取り組むのは初めてのことだった。次回作のイタリア・バロック音楽をベースにしたバレエ構想をあたためていたディアギレフは、制作陣ストラヴィンスキー・ピカソ・振付師マシーンを誘いイタリア・ナポリへの旅を敢行する。そこで見た芝居や劇場、美術作品、街並みすべてがバレエ『プルチネルラ』のインスピレーションとなる。

旅を通して親しくなったピカソとストラヴィンスキーは、『プルチネルラ』が無事完成して初演される1920年までのあいだ親交を深めていた。

 

斬新なアイデアに富んだ『ラグタイム』

『プルチネルラ』以前の二人の初のコラボレーションは1919年に完成する。ストラヴィンスキーが『ラグタイム』という題名の曲を制作し、ピカソがその楽譜の表紙絵を担当した。

Igor Stravinsky - Ragtime for Flute, Clarinet, Two Horns, Trombone, Percussion (bass drum, snare drum, side drum, cymbals), Cimbalom, Two Violins, Viola, and...

予想不可能なリズム、木管楽器の響き、ツィンバロムという弦打楽器の金属的な音が面白い曲である。ストラヴィンスキーは当時フランスでも流行していたアメリカからもたらされたジャズに興味を示しており、友人だった識者のアンセルメがアメリカからジャズやラグタイムの楽譜をストラヴィンスキーに見せていたそうだ。ストラヴィンスキーは当時ジャズの生演奏を耳にしたことはなかったが、その斬新なリズム表記や楽想に魅了されたと思われる。つまり『ラグタイム』は、ストラヴィンスキーが「楽譜からのみ受け取ったラグタイム像の音楽化」という、かなり実験的な形でうまれた。特徴的なのはリズムのヴァリエーション。付点音符、三連符、モルデントなどが巧みに組み合わされ、リズムや拍子をあえて混乱させている。わざと複雑なリズムをちりばめることで、聴き手に一見混沌とした印象を与える。

ピカソ『ラグタイム』表紙絵

ピカソ『ラグタイム』表紙絵

ピカソの表紙絵は、キュビズムの複雑さから離れた、純粋に楽しいイラストである。楽し気な二人の音楽家が描かれているが、実は一本の線で全てが描かれている。さらっとテクニックを披露するあたり天才ピカソらしい。二人の顔に注目してみると、右側に立つハットをかぶったヴァイオリニストの顔はよく見るとト音記号で、そして左側のバンジョー弾きの顔はヘ音記号である。楽器の特性から考えると、ヴァイオリンは高音に適した楽器でありト音記号、それに比べるとバンジョーは低めの音域を奏でることが多いためヘ音記号、という風に考えられる。気の利いた音楽的なアイデアである。

またピカソがイラストに仕込んだ小さないたずらからも二人の仲の良さが見える。ストラヴィンスキーの名前のつづりを、正しい「STRAVINSKY」ではなく、「STRAWINSKY」とわざと間違えているのである。実はこの冗談は先にストラヴィンスキーが仕掛けたものだ。『ラグタイム』の楽譜には小さく「Pour Paolo Pi/ca/ss/o (パオロ・ピカソに)」と書かれている。パブロであるべき名前をわざとイタリア風の響きパオロに変えているのだ。こんな子どもっぽいおふざけもあれば、ピカソはまじめにストラヴィンスキーの肖像画も描いたりもしている。

ピカソ 『ストラヴィンスキー』

ピカソ 『ストラヴィンスキー』

きっちり撫でつけられた髪にスーツ、鋭い眼光がミニマルな線で描かれた、いかにもストラヴィンスキーらしい肖像だ。受け取ったストラヴィンスキーはとても喜んだという。

 

バレエ『プルチネルラ』

その翌年、『プルチネルラ』は初演を迎える。幸いなことに観客から大きな喝采を受け、その後何度も再演された。イタリアのコメディア・デラルテをベースにした浮気男プルチネルラが主人公のユーモアあふれる物語と、モダンな舞台美術や衣装がとても楽しい作品だ。音楽は、高貴で品がありつつもストラヴィンスキーらしい斬新さが際立つ。『プルチネルラ』はバレエ、オーケストラ・ピース、室内楽用(ヴァイオリンもしくはチェロ、とピアノ)など何度も編曲されており、その人気の高さがうかがえる。比較的演奏機会の多いオーケストラ版を取り上げてみよう。

Tonhalle Orchester Zürich - Alondra de la Parra (2017) As is well known, Stravinsky fashioned his ballet, Pulcinella (1919-20) after music of Giambattista Pe...

全8曲にまとめられ、各楽曲は『シンフォニア』『トッカータ』『メヌエット』といった古典的すぎるタイトルがつけられている。メロディなどの素材は、イタリアの作曲家ペルゴレージ(他作曲家のものもあり)のトリオ・ソナタなどから借りられている。ときに元の素材音楽そのまま、ときにベースラインを保ち(中のハーモニーは現代的だが)、ときにユニークなリズムアクセントを用いて、と様々な方法を用いてオーケストラ曲に生まれ変わっているのだ。その音楽制作について音楽学者・岡田暁生氏は研究の中で、

 (ストラヴィンスキーは)楽曲の「構造」をそのまま借用しつつ、しかしそれを固有の「未身振り」でもってデフォルメし換骨奪胎してしまう

 

と表現し、『プルチネルラ』はペルゴレージの曲を編曲しただけの仕事ではないとはっきり述べている。

たとえば第一曲目『シンフォニア』や第三曲目『スケルツォ』は耳心地の良い可愛らしい合奏曲であるが、決して古臭くはならないスパイスが散りばめられている。第四曲目『タランテラ』では古典的なメロディラインが全体を覆うが、それは休みない8分音符によってきざまれ続け、死まで追いやる踊りのステップを連想させる。第七曲目『ヴィーヴォ』ではトロンボーンがプワァンプワァンとふざけたようなマーチを響かせ、終曲『フィナーレ』はいかにもストラヴィンスキーさ全開で、爽やかなメロディと小気味よいリズムアクセントが駆けぬける。

全曲通してバロック音楽のような予定調和を感じさせつつも、まるでその安心感をからかうようなパロディが散りばめられている。奇想天外なアイデアが矢継ぎ早に現れる、エンターテイメントに満ちた音楽である。『プルチネルラ』におけるストラヴィンスキーの仕事は、決して「編曲」作業ではない。まさに岡田氏の引用にある「換骨奪胎」という言葉が表すように、ペルゴレージの原曲はあくまで素材でしかなく、ストラヴィンスキーのユーモアに満ちた手法によってまったく新しい音楽に生まれ変わっているのである。

実のところ、このストラヴィンスキーの「換骨奪胎」には、批評家や保守的な音楽知識人から冒涜行為だと多くの非難が浴びせられた。ストラヴィンスキー自身、著書『私の人生の年代記』の中で「ペルゴレージに対する私の行動方針を支配すべきなのは、ペルゴレージの音楽に対する敬意なのだろうか。それとも私の愛情なのだろうか?」と批判に対して自問を続け、『プルチネルラ』制作が相当難しいものであったことを吐露している。しかし同時に、この作曲作業は「神聖なものの潜在的な生命を再度活気づける」ものであるという強い姿勢を崩さなかった。ストラヴィンスキーはこの創作を通してペルゴレージとの親近性をより強め、作曲家としてのアイデンティティを一層確立していったのである。

 一方ピカソが担当した舞台美術と衣装は、それまでのピカソが創り出したバレエ・リュスのための仕事と比べると、少しおとなしい印象を受ける。

主人公プルチネルラの衣装 ピカソデザイン

主人公プルチネルラの衣装 ピカソデザイン

実はディアギレフは最初ピカソが提案してきた衣装が前衛的すぎるため、ダメ出しをしたそうだ。そのため衣装は伝統的なスタイルに従ったもの、たとえば、プルチネルラの白い装束と仮面は定番のスタイルである。全体的にだぶつかせ赤いポイントを散りばめたのはピカソらしい。最終的に舞台に上がったピカソの舞台芸術は、控えめでありながらモダンな造形美が素晴らしいものに仕上がった。

ピカソ プルチネルラ舞台セット本番使われたもの.jpg

舞台の背景画 ピカソ

青、白、こげ茶といったシックな色合いでまとめられた舞台セットには、ナポリの街並み、ナポリ湾、そして満月がキュビズム的なシンプルさをもって描かれている。主人公プルチネルラの衣装のアクセントである赤色が、舞台セットの色に映え、なんともスタイリッシュである。

バレエ『プルチネルラ』はコメディ的な物語、音楽、衣装、美術とすべて洗練された観客を楽しませるバレエである。もっと知名度が上がればと思う。

 

同時期にのめりこんだ「新古典主義」

『プルチネルラ』以降、ピカソ・ストラヴィンスキー両者ともその流れを汲んだ制作に取り組み始める。その中心にあるのは『プルチネルラ』の中核でもあった、「古典への回帰」である。第一次世界大戦後ヨーロッパは戦乱の不安定さから「秩序」を求め、理想を過去の古典的な美に求めた。

ピカソの関心も原始的なモチーフからギリシャ・ローマ時代の彫刻へとうつっていった。古代の衣装を身に着け、厚ぼったい油彩で量感たっぷりに描かれる女性たち。ラファエロやアングルの古典絵画に見られるふくよかで豊かな女性像は、いかにもピカソらしい形でデフォルメされている。

ピカソ『シュミーズを着た座る女性』

ピカソ『シュミーズを着た座る女性』

ピカソ 浜辺を駆ける二人の女性(かけっこ).jpg

ピカソ『浜辺を駆ける二人の女性』

この『浜辺を駆ける二人の女性』は新妻オルガと息子を連れて地方の海辺にバカンスに行ったときに制作された。丁寧に書き込まれた陰影や、簡素なドレスや彫刻的な顔つきはいかにも古典主義的だが、最も印象的なのは、空と大地のビビッドなコントラスト、手をとりあって今にも飛び立ちそうな躍動感と生命力である。ロシア・バレエ団との共作影響からか(しかも新妻はバレエ・ダンサー)、この絵画では古典主義のテーマに「動き」が加わり、新しい表現が見られる。ピカソもまた、ストラヴィンスキーと同じく古典素材の「換骨奪胎」を見事に実現した。

 この二人の芸術家には多くの共通点がある。同時代を生き、親しく交流し、新しい表現に常にチャレンジし、そして自らのスタイルを鮮やかに変えていく姿勢を貫いている。二人とも80年以上生き、ストラヴィンスキーはアメリカに亡命、ピカソはフランスに滞在し、環境が変わっても二人の創作意欲が衰えることはなかった。『プルチネルラ』以降彼らの交流がどれくらいあったのかは定かではない。しかし文筆も得意なストラヴィンスキーが書き残したいくつかの文献を見る限り、常にピカソの芸術性を敬い信頼していることがよく分かる。対象的にピカソは文章を書くことをあまり好まず、後世の私たちは作品からのみ推測するほかない。ピカソといえば往々にしてスキャンダラスな女性関係ばかりが注目されがちであるが、同業者や画商など彼と交友のあった人々の証言を見ると、とてもチャーミングで人たらしである一面がうかがえる。

 もし戦争がなければ、二人はまだ同じヨーロッパ内で斬新なコラボレーションを続けることができたのではないだろうか。傑作『プルチネルラ』を見るたび、そんなことを考えてしまう。

 

 

角田知香

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